The Art from Hokkaido by SHIRAKAWA Hiromichi

Japanese artist's gallery and diary

2年。そして3年目へ

 

 

ココで言ってやりたいコトも

 

書いてやりたいコトも

 

山ほどあるのだが…あまりにありすぎる… 。

 

 

 







 

札幌では一昨日からこの冬一番のそして恐らく最後であろう大雪となりました。

 

 

 

 

 

 

追記▪️先日NHKのラジオでウクライナ侵攻についてやっていて番組の最後に司会がリスナーからメールが届きましたと紹介した。〝 ……私は以前ロシアを方をずうっと旅したことがあって…行く先々でロシアの方々に優しくしていただきました……ロシアの国民一人一人はとても気さくで優しい方で…… 〟すると司会が〝 国家と個人は分けて考えなくてはいけません…差別はいけません… 〟などと今回の事態に関してロシア国民には責任がなく奴らを庇うような言い方をしていた……愕然とした気分になった。NHKは〝 お花畑 〟の集まりなのか?この男は毎日ニュース原稿読んでるくせに2年も経って未だわからないのか?信じられない。もっとウクライナの現場を見ろよ。村や街を襲っては略奪をし、ブチャの人々を惨殺してから地下室に女・子供を連れて行きレイプしていた奴らなんてロシアの街を普通に歩いて普通に仕事していた連中だ。〝 国家 〟という何か得体の知れない巨大な〝 バケモノ 〟が戦争するわけじゃない。普通の人々が戦争をする。国家は国民であり、国民なしに国家は出来ない。国家と国民は必ずどこかで繋がっている表裏一体の存在だ。共産国家なら尚更の事だろう。

▪️ロシアという国は歴史上自分達の過ちや蛮行を反省した機会が一度も無かったんじゃないか。満州アフガニスタンチェチェン、シリアそしてウクライナ。ロシア軍はマスコミを遮断して情報を出さず、自国民にすら知らせない。国民もそれを良いことに何も知らんフリだ。だから奴らにとってロシアは世界で一番美しく良い国で、いざ西側諸国に経済制裁くらうと不可解そうな被害者〝 ヅラ 〟をして西側が悪いと言い放つ。

▪️それでもロシアで戦争に反対する人達がいた。デモしている人に何故戦争に反対するのかインタビューしてみると〝 自分の旦那や息子が戦争に連れて行かれるから…… 〟ということだった。ウクライナの人々を大勢殺してしまった…などという自戒の念などひとっかけらもなかった。これにも愕然とする思いがした。もう自分のことしか考えられない。救いようのない連中だ。奴らの言い分を聞いたり同情する気にもならない。

 

壮大なる〝 実 験 〟

 

たしか10年か15年前…いや、もっと前だったろうか……うる覚えだが

インタビューで〝 かの人 〟がこんな事を言っていたのが印象に残っている。

 

『 ……自分のやっていること(音楽活動)はまさに実験である…… 』と。

 

実 験…… 。

つまり東洋人が西洋の音楽を真に理解し奏でることができるのかという…。

 

 

1959年初めて海を渡ってから65年。

しかしながら先日その壮大なる〝 実験 〟にピリオドが打たれた。

小澤征爾  88年の激動の人生だった。

88…無限がふたつ…どこか意味深で芸術的なるものを覚えるのは私だけか?

 

〝 実験 〟結果は言うまでもない。

今では世界の著名な音楽コンクールで日本人に限らずアジアの演奏家が入賞し

海外のレーベルからレコードやCDを出し演奏会が開かれ

世界中のオーケストラの中にチラホラとアジア系の顔を見かけ

日本人の指揮者やコンサートマスターがオーケストラをリードする…。

なんてことは珍しくもない時代となった事が全てを物語っている。

 

でもある日突然こんな状況ができたわけじゃない。

そんなこと出来るわけない、考えもしない、

そういう時代に無謀にも最初に飛び込んだ人達がいた。

アッチの人から見ればクラシックとは無縁の世界の……おまけに

〝 敗戦国 〟という烙印の黄色い奴が指揮者になるなどと… 。

戦後14年、人によってはまだ戦禍の記憶が生々しく残っていたはずの時代に

初めてこの人は無謀な海に飛び込んだ。

(当時日本人の国際的な立場は地に堕ちていた。我々が目にすることのない場での数え切れないほどの苦労は想像に難くない)

カラヤンバーンスタインシャルル・ミュンシュなど

今や伝説の巨匠と呼ばれている人達の仕事を間近で学んで

超一流の演奏家達に受け入れられながら最高峰の舞台で仕事を遺した。

あの真っ白な世界で一人の日本人があれだけ堂々と活躍する様は

ある意味神がかり的であったしあれを見た多くの国民が誇らしく思えたはずだ。

まさにああいう頼もしい人がいたからこそ今の状況ができた。

 

明治維新…色褪せた朝鮮や中国の文化を学んできたそれまでの時代に見切りをつけ

西欧の文明を貪欲に取り込み世界へ果敢に挑戦し敗戦を経験した後

更に西欧を横目で見ながらも自らを模索し再び果敢に挑戦してきた日本の文化だが

まさにその歩みと同じままに生きていたような人だった。

 

謹んでお悔やみ申し上げます…。

と同時に数多くの名演と活躍するその姿を見せてくれた事に感謝の意を表します。

 

 

 

◾️追記……小澤氏についていつも不思議だなと思っていたことがある。確かボストン響やサイトウキネンではベートーベンやマーラーの録音がリリースされているのにドイツグラモフォンからベルリンフィルウィーンフィルとの演奏でそういったレパートリーがいつまで経っても出て来ないのは何故なのか。音楽祭や定期演奏会などで演奏し必ず録音も残っているはずだと思うのだが。本人の意向なのか……?…… それとも …… 。

 

【Toy Cars #55】 弾 丸 - 1

 

 

 



第2次大戦後……アメリカではヨーロッパから帰国した米兵達が一緒に持ち帰ったというヨーロッパ製スポーツカーの一大ブームが巻き起こる。それに感化されたのかアメリカのメーカーも負けじと1950年代、遂に自国を代表するツーシータースポーツを相次いで発表した。

 

それがGMの〝 シボレー・コルベット 〟と

フォードが開発した伝説の巨鳥を意味するサンダーバードであった。

 

 

 

'63 FORD THUNDERBIRD / Jada Toys

 

 

 

'63 FORD THUNDERBIRD / Jada Toys

 

 

 

'63 FORD THUNDERBIRD / Jada Toys

 

 

 

'63 FORD THUNDERBIRD / Jada Toys

 

 

 



 

【三角の山 #27】白い川 - 1

 

 

 

人は自然の猛威の中で自らの無力さと〝 日常 〟の尊さに初めて気がつく…… 。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【Toy Cars #54】過激なる先駆者 - 4/伝説は奇跡へ

 

 

Lamborghini Diablo SV / TOMICA

 

 

 

Lamborghini Diablo SV / TOMICA

 

 

 

 

Lamborghini Diablo SV / TOMICA

 

 

 

1980年代の後半、

ランボルギーニカウンタックに代わる

次世代のフラッグシップ車の開発を急いでいた。

開発を担当したルイジ・マルミロール氏は新型車の名前を決めるにあたり

数十もの候補を用意していた。

 

ランボルギーニの車名といえば伝統的に闘牛に由来しているモノが多い。

例えばミウラは闘牛の牧場主の名が由来であり

エスパーダは闘牛の剣

ウラッコは小さな牝牛

ムルシエラゴは雄牛

アヴェンタドールも雄牛の名前である。

闘牛ということなのでスペイン語の辞書を取り出し

まず闘牛に由来しているかは前提とせず

音感が良く一度聞いたら忘れないような言葉を片っ端からピックアップしたそうだ。

そしてある日、それらを当時の幹部達に配り投票してもらうことにした。

結果一番支持されたのが〝 Diablo ディアブロ 〟だった。

 

この言葉はイタリア語読みで〝 悪魔 〟を意味し

よくよく調べてみると

嘗てスペインに〝 Diablo ディアブロ 〟という凶暴な闘牛が

偶然にも実在していたことが分かった。

1869年、マドリッドの闘牛場で闘牛士 ホセ・デ・ララと闘ったあの牛のことである。

100年以上も前からこの車の誕生がまるで運命付けられていたような奇跡に

マルミロール氏は驚き感動した……というエピソードである。

 

 

 

Lamborghini Diablo SV / TOMICA