創造とは…突き詰めて言えば
世の中の〝 モノ 〟や〝 コト 〟に
新たな〝 価値 〟を見い出す事で得られるのではないかと思う。
それらは我々の生活から遥か遠くにあるモノより
〝 平凡な日常 〟や〝 当たり前 〟や〝 常識 〟のように
我々の生活から近ければ近いほどそれを見い出すのは難しくなり
作り手の感性や才能が大きく問われることになる。
確かに時間とか体力とか手間とか金は掛かるが
遥か遠くまで誰も見た事のない〝 モノ 〟や〝 コト 〟を見つけるのは
言い過ぎかもしれないが努力をすれば誰にでもできることだ。
時間、体力、手間、金なんかより独自の〝 美 〟意識とか天性の才能は
誰にでも存在するわけではなく遥かに尊い。
故に自分自身という存在から近い場所で〝 美 〟を見い出せる芸術家の方が
遥かに優れた芸術家と言えるのではないか。
いちいち遠くまで行かないと〝 美 〟を見い出すことも
日本人としてのアイデンティティーに気付くことも出来ない人は
イマジネーション無き劣った芸術家だと思う。
例えば嘗てピカソは人の〝 モノの見方 〟という根源的なものを
従来の作品とは違う形で問うたわけだし
描かれている多くのモティーフは
家族とか愛人とか友人知人、テーブルの上に載った食べ物やモノである。
それから近年日本での人気を不動のものにした感のある
オランダのヨハネス・フェルメールという画家は
故郷のデルフトを殆ど出る事のない生涯だった。
だから彼の作品は主にデルフトの風景だったり
自分のアトリエ(?)か自宅の書斎のような空間に人物を配し
観る者に何か描かれた人物達の物語を想起させる
まるで映画のワンシーンのような作品だ。
それらは全て彼の平凡な〝 日常 〟と彼の中のイマジネーションが
合体し構築された世界である。
さらに日本映画界の名匠 小津安二郎 監督。
昨年2023年が生誕120年だったにも関わらず今一つ盛り上がりに欠けたが
昨年は監督が亡くなってからちょうど60年の節目でもあった。
独特なカメラアングルでどこの家庭にでもあったような
〝 平凡な日常 〟で繰り広げられる市井の人々の心情を切り取った。
世界から見れば日本の〝 日常 〟という非常にローカルなストーリーではあるが
いまだに日本よりも世界の映画人からの評価が高いというのは
単なるエキゾチシズムだけでは語れない普遍的なものが
そんな〝 日常 〟の中にこそ実は強烈に存在するからなのではないか…。
だから私は今後も〝 日常 〟を見つめるという事を決して疎かにせず
まずそこから出発し拘りながら創作を続けていこうと思っている。
▪️追記▪️
年初から石川県能登地方ではとんでもないことになった。〝 Happy… 〟なんて呑気な事言っていられない方が大勢いるに違いない。とにかく被害が出来るだけ最小限に済むように、死者が出ないように祈っている…。